THE-O

初钢和共同体?

2个月前左右,台湾的富野爱好者林子杰老师在推上连续转了好几十条谈初代的推,不知缘起是什么。不过似乎内容挺有意思的,初钢已经这么多年,出来谈解读解构什么的本来就会给人很老土的感觉,但既然本来就土,对于喜欢的人来说,都不是问题,常看常新嘛。


    [*]ララァについては「空間を超越して人間の意思と意思が直接、非言語的に接触する誤解なき完全なコミュニケーション――アムロにとってララァの存在はニュータイプの可能性そのものだった。そしてアムロはララァとの共振で見出したニュータイプの可能性を擬似家族的な共同体に着地させることになる」

    [*]物語の着地点については「家族的なものを超越する擬似家族的な共同体への希望として示されたのだ」続いて、「ニュータイプとは空間を超越した非言語的なコミュニケーションを可能にする存在だ。そして富野はニュータイプの新しいコミュニケーションのイメージを、家族的なものからの超越に象徴させた」

    [*]「血の呪縛を超え、自ら選びとることのできる擬似家族的な共同体を「帰る場所」とできること――それがニュータイプの、ひとつのあるべき姿として提示されたのだ」ここでいう血の呪縛とは、家族の呪縛、制約のこと。

    [*]「近代的な<人間>への成熟から、ニュータイプへの覚醒へ(変化への適応)。そして、家族から擬似家族――人間の世界を制約するさまざまな呪縛から解放された、遠くどこまでも届く共振の可能性(適応後に実現すべき理想)――へ。それが富野がニュータイプという概念を用いて示した新時代の思想だった。途中省略しているところもあるが、以上のような感じ。

    [*]個人的には再三ブログなどでも書いているように(少なくともファーストにおいて)「ニュータイプは人間を描くための道具でしか無い」と私は思っているので、かなり違和感を感じました。この中では特に擬似家族的共同体について。

    [*]擬似家族的共同体に関しては、何か自説(結論)ありきの逆算で書かれているような気がしてならない。『機動戦士ガンダム』における擬似家族は、確かにアムロ少年の物語としての着地先にはなったけど、概念としての「ニュータイプ可能性の着地先」とはむしろ真逆の存在に見えるのだけどな。

    [*]『機動戦士ガンダム』における擬似家族的共同体は、ホワイトベースという船の内部にあるわけですが、共同体の形成や調整・維持については初期はリュウ・ホセイが、のちにはブライト(父)、ミライ(母)を中心とした、ホワイトベースクルー全体が擬似家族的な共同体の一員となり、これを形作ります。

    [*]これはホワイトベースが軍艦とはいえ、避難民(一般人)を載せた船だったからで、いわば災害で体育館に避難した人々が次第に自然と作るコミュニティに限りなく近いものだと思います。それでも全ての人々と上手くやっていけるわけではなく、初期には共同体意識のない人々はいて、彼らは去っていきます。

    [*]アムロも途中で家出しますが、これはハヤトもカイも1度はやっている普通のことで、いわば擬似家族でRXシリーズに乗る3人の息子たちは全員家出をして戻ってくるのを経験していることになります。ですから家出自体ではなく、アムロの特異性は、ガンダムと一緒でなければ家出ができなかったこと。

    [*]こうしてホワイトベースが擬似家族化していく中で、アムロを除く全員が、アムロより先に、何のために戦うのか、誰のために戦うのか、その答えを見つけていきます。カイも、ハヤトもそうです。ただアムロだけが、ニュータイプに覚醒していく中で、ホワイトベースにいながら精神的に孤立していく。

    [*]ニュータイプとして目覚めれば目覚めるほど、戦場での戦闘力は増し、ますます死なない存在になっていく。それはアムロにその役割を期待した共同体にとっても、歡迎すべき状況だが、あまりの働きに劣等感や壁を感じるものも出始める。アムロは共同体の中で特異な存在として孤立化していく。

    [*]このタイミングでララァに出会い、指摘される。あなたには守るべきものも、守るべき人もいない。ふるさとも家族もいない。何にもないけどニュータイプの戦闘力で戦い生き延びている。それは不自然だとララァは言う。それを全43話のアニメの第41話で言われる。すごい。アムロは反論できない。

    [*]で、その後、ララァと交感し、生まれて初めて自分と同じ存在と出会い、それと深くつながることができた。ホワイトベースの共同体で孤立化してたアムロにとって、同じニュータイプのララァこそが本当の仲間。ニュータイプとして生きる理由を見つけた瞬間にララァを失う。はてしない絶望。

    [*]その後、悟りきったアムロはア・バオア・クーでシャアを倒すが、ガンダムという機体を失う。アムロは、仲間たちの頭のなかに話しかけて、彼らを救う。そして、その後、仲間たち(子どもたち)にアムロ自身も誘導してもらい助けてもらう。で、最終回の全てが終わったタイミングでアムロはやっと気づく。

    [*]自分には何もないと思っていたが実はそうではなかった。戦う理由も無いと言われたけど、実はあった。擬似家族的な共同体はずっと自分のそばに存在していたし、ニュータイプかどうかは関係なく、人間である以上一人では生きられないし、帰る場所があるのは幸せだと。それを最終回ラストシーンで気づく。

    [*]「ニュータイプとして擬似家族的共同体を選ぶのがあるべき姿」と言えば、まあアムロは、ララァの世界ではなく、ホワイトベースのみんなを選んだんだけど、それはニュータイプがどうというより、生きる理由が特にないと思っていたけど実はあった、という話なので、あまりニュータイプ関係ないと思う。むしろニュータイプに目覚めてしまったからこそ、共同体の中でも孤立し、精神的にも同種のニュータイプに出会えず孤独を感じ、色々気づくのが遅れている。あの皮肉屋のカイですら、ミハルの後は何のためにどういう理由で戦うかはっきり自覚し、以後、共同体の和を乱すようなことはしていない。

    [*]アムロが孤立化するニュータイプたちを集め、ニュータイプだけの擬似家族的共同体をつくり、そのリーダーとなる。というような『X-メン』のプロフェッサーXみたいなことをするのなら分かるけど、むしろその逆で、ごく普通の人々がつくった共同体に単なるひとりの人間として参加する話でしょう。

    [*]だからア・バオア・クー戦の前に、アムロは「大丈夫。作戦は成功します。ニュータイプの勘です」という、ニュータイプ能力と全く関係ない嘘つくわけじゃないですか。「ニュータイプになって未来の事がわかれば苦労しません」と、アムロは分かってて嘘をつくし、周りも多分、嘘だろうと思っている。嘘でもみんな言って欲しい言葉を、みんなのために言い、みんなも「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」ことを分かりつつ、アムロがそれを言った気持ちをありがたいと受け取る。このやりとりには何一つニュータイプ的な能力も何も存在していない。気心の知れた普通の人間のやりとりでしかない。

    [*]それはSFでも何でもなく、新しくもなく、むしろ古典的な、メーテルリンクの『青い鳥』的な周り道での、擬似家族的共同体の発見(と同時に完成)であって、「富野がニュータイプという概念を用いて示した新時代の思想」とは私は思えない。やはりニュータイプは人間を描くための道具でしかないと思う。

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  1. Tancw说道:

    可以翻译一下吗,全日文。。。。。

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